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地域づくり
地域づくり
 槇総合計画事務所以来、横浜市都市デザイン室との関連でアーバンデザインの経験を積んできた。また、AUR時代から中村事務所にわたっては、4年間かかって計画実施した栃木県那須町の「那須友愛の森」で、まちの活性化と観光拠点、そして芸術家たちの参加を試みた。
 この経験を活かして、昭和63年には長野県浪合村で村づくりに携わり、平成10年には秋田県中仙町、東京都大島町で街の魅力づくり、また福島県鹿島町、横浜市磯子区杉田では中心市街地活性化を行ってきた。
 これらを通じて各地域には独自の魅力があり、潜在化している魅力要素を顕在化して住民がこれを愛し、街に愛着をもつことで独自な文化を生み、育て、地域のスケールに合った活性化を行うことができ、地域づくりにおいて必要であることを説いてきた。
 建築設計においても、住民参加型のプロセスの中から必要性と利用者のアクティビティが理解され、本音の住民ニーズが的確に把握でき、その上で新しい建築のあり方を問う、リアリティのある解答を出してきた。

■コラム
「所論緒論」日刊建設工業新聞4「汐留都市再開発での都市デザインの欠落
「所論緒論」日刊建設工業新聞5「東京の空の不思議

●秋田県中仙町
 「町ぐるり博物館」構想で観光案内人養成講座の講師を勤め、羽後長野川湊の東北の歴史における重要性の指摘、水をテーマとする先人の知恵を探る博物館の意義を説いている。
 2000年9月10日には川湊サミットを開催し、その中で新野直吉先生の基調講演に続いて、雄物川の4主要川湊が集まり、川湊の歴史、東北の歴史上重要 な拠点としての役割、水の魅力、これからの街づくりへの展開などを探るシンポジウムを中村のコーディネーションで行った。この際、仙北地方の珍しいささら の競演など、多くのイベントで盛り上がった。
 二日町の町並み景観整備計画を策定し、景観条例化して黒塀復元に対する補 助を行うこととし、第一号の整備が完成した。また、「水の公園」を設計し、黒塀と御役屋門を復元し、用水を利用して鯉の池と水家を建築した。(「水の家」参照)

●秋田県美郷町
 03年から仙南村のまちづくり勉強会ワークショップを勤め、歴史・文化探偵団、環境探偵団、子どもと老人の居場所分科会などの分科会により、「ふれあい」をコンセプトとした提言を行った。このワークショップの中で仙南村の7つの森(山)を金沢の柵と一体化した堅固な要塞の役割と仮設をたて、清原の郷の特異な歴史を掘り起こした。
 05年には統合した美郷町のまちづくり勉強会を行い、千畑、六郷も含めた魅力の発掘を行っている。

●長野県浪合村
 平成2年の新しい村づくりに対して50人委員会が設けられ、専門家の特別委員を交えてこれまでの観光開発を中心とした村づくりから、「村全体が村民全ての浪合学校」というコンセプトで「教育を軸とした村づくり」へ転換した。
 この後平成7年に「教育・福祉・環境の3本柱による村づくり」、そして平成12年にはソフトな活動を重視して「村民全てが生涯主人公となる村づくり」と変遷してきた。
 この成果はハードな点では「浪合フォーラム」の約7年に及ぶ建築計画につながり、JIA環境建築賞などの受賞につながっている。(「浪合フォーラム」参照)

●福島県鹿島町
 街並み街づくり特定事業による中心市街地活性化の委員会を開き、ワークショップ手法による街の将来計画を作成し、不利な条件をバネに、歴史的な街の良さを掘り起こした街づくりを行った。

●横浜市磯子区杉田
 街並み・まちづくり総合支援事業による中心市街地活性化のための取り組みとして「杉田づくり勉強会」を開き、この地区を取りまく周辺環境の変化に対応した、総合的なまちづくりを行った。

●長野県戸隠村
 戸隠塾の青年会の指導を行ってきたが、06年には商工会の景観整備勉強会をワークショップで行い、宿坊景観を再生する検討会を行っている。

●愛知県旭町、滋賀県余呉町、長野県下條村、高森町、奈良県菟田野町などでは、施設づくりを目標に50人以上の住民が参加した構想づくりを行った。
■ 汐留都市再開発での都市デザインの欠落
 東京では大規模な都市開発の完成が続いている。市街地の空洞化問題が地方都市だけでなく都内にもおしかけているような経済不況の時代にもかかわらず、品川、六本木、汐留などの都市開発地区を見る限りでは日本経済は右肩上がりかと錯覚しそうである。これらの開発の中でも汐留地区において、都市計画家、都市デザイナーがどのような役割を果たしてきたのかを見てみたい。

 汐留開発において都市デザインを考える際のコンテクスト(文脈)は最低3つあると思われる。第一は東京湾の海を引き込んだ浜離宮の埋立ての歴史と緑地帯。二番目は人々に親しまれてきた銀座の延長にある街としての位置。そして道路や鉄道などの交通空間と共存し、守られる歩行者空間の快適性である。

 第一の海と緑の課題に関しては、汐留は歴史的にみると東京の海と街との接点として重要な位置にあった。浜離宮は1654年に作られ、海辺の庭園の特徴である、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変える潮入の池があり、将軍家が海を楽しんだ場所である。また浜離宮の北にある銀座運河は、最近までプレジャーボートのメッカで、釣り船からヨット、船上レストランなどが係留され、人々の東京湾とのかかわりを示していた線的親水空間である(この運河は環状2号線として埋め立てられる予定である)。

 新旧市街地の接点となる汐留の開発計画にあたって、このような浜離宮の緑、塩入の庭に示されるような海と陸の関係、銀座運河で親しまれてきた海との関係を内陸側へ取り込めなかったのであろうか。首都高を挟んででも運河や塩入の港を引き込んだり、緑を連続して環状2号線沿いに緑地帯を設けるような計画であったら、風が流れ、カモメや海辺の鳥たちが飛び、さわやかな風が汐の香りを運んでくれたかもしれない。

 第二の課題である銀座街は、江戸の地図では江戸前島と呼ばれた半島にあたり、日本橋から約5kにわたって南へ続いていた街である。幅120m、奥行き30〜50mという短冊形の街区構成に、高さを31mに統一してスカイラインの美しさをもった、ロンドンに似たヒューマンスケールの街である。ここには銀ブラといわれる歩行者空間の楽しみがあり、新しいファッションがあふれ、旧い建築と新しい建築が混在し、常に新しさ、話題性があふれているという魅力がある。銀座のアーバンデザインのもつ街区構成や、ヒューマンスケールの町づくり、そして常にどこかで新しい時代を象徴する建物やファッションが生まれてきた活性的な街のコンテクストが、その南側にある汐留開発でも、ハード、ソフト両面で意識されるべきではなかったか。街の方向性、高さ、ヒューマンスケール、歩行者空間それぞれの課題にどのように応えているのであろうか。残念ながら汐留の街区は銀座街区とは違って不整形であり、その結果、街区内の建物はどちらを正面としているのか分からない。曲面で変形した建築デザインが多く、単体では美しくても東西南北の方位感覚も働かなくなってしまう。新橋方面の旧市街地とのスケールギャップも大きく、ゆりかもめもビルの狭い谷間から顔をのぞかせている。地下の街路を歩いても、何度も案内サインを覗き込んで確かめないと自分の居場所が分からなくなる。ペデストリアンデッキを歩くときも超高層の建物を目当てにして動くしかなく、道としての方向性がない。銀座街の分かりやすさを作り出している街区構成の良さはここには見られない。しかも銀座のように何年も何十年もの間、それぞれの街区が更新されて時代を反映した知恵が蓄積されていくという、新しい街が常につくられるソフトの仕組みが汐留には感じられない。

 第三の交通網、道路網については、汐留地区にはJR、ゆりかもめ、地下鉄等の公共交通機関、そして首都高速、昭和通り、第一京浜、環状2号線等の道路網が入り組み錯綜しているが、その状況をどう乗り越えて快適な歩行者空間が生み出されただろうか。様々な交通網によって街区が分断され、それをつなげようと地下街路、空中ペデストリアンネットワークが設置されているが、これらは連絡機能のみを担っていて街区相互のアクティビティを連結するという役割はみられない。街区から提供された公共空間も各敷地単独で趣向を凝らしてはいるが、共通のアーバンデザインコンセプトが話し合われた形跡はない。

 このような、汐留という歴史的に重要な地区に、適切な都市デザインがなぜ行われなかったのであろうか。都市デザインは人の空間を豊かにして都市を人間の手に取り戻そうすることだった。建築としてのすばらしさはあっても群としての都市デザインや人々の生き生きとした生活の空間が見られないのが残念である。各街区における容積率、高さ制限等の法的規制のみが作用して建築としてデザインされているだけで、街区の不動産価値を最大限高めることだけに汲々とし、高層建築がひしめき合っている状態といえる。超高層群にしては街区が狭すぎるのか、新宿西口のような公開空地の緑も少ないように思われる。都市デザインは特別な予算がないとできないという財政難を理由に一蹴されたのだろうか。このような大規模な開発が行われているにもかかわらず、都市デザインの力が及ばない状況は現代社会の経済優先による文化的貧しさを象徴しているようにも思える。考えさせられる事例である。
「所論緒論」日刊建設工業新聞4
■ 東京の空の不思議
東京の空にある不思議なもののことである。この数年の間に東京にいくつかの不思議なものが出現した。出現したというのは、こんなにも大きく、遠くから見えるオブジェにもかかわらず、計画中や建設中にはとんと話題に上らず、完成してからも人々の間ではひそひそとしたうわさはあっても、表立った議論がなされてこなかったという不思議さが神秘的でさえあるのだ。

 それらは、代々木のDocomoタワー(272m)、市谷の防衛庁の電波塔(220m)、池袋の清掃工場の煙突(210m)である。清掃工場の煙突は世田谷を初めとして(今年度役目を終えて解体されるそうだ)、お台場などにもあるが、ここにあげるのは普通の電波塔や煙突の類から、一つ抜きん出た高さがあり、迫力がある構造物である。それらが人々の知らぬ間にあるとき突如として出現し、その後東京の風景の中である場所から見ると周囲を圧巻する影響力をもった特異な存在となっているのだ。その中でもDocomoタワーは他の二つと違って恣意的な悪巧みが感じられる。

 Docomoタワーはニューヨークのエンパイヤステートビルに酷似しているのだ。中央高速道から首都高速道路に入って東にまっすぐにくると道路景観の正面にこの塔が威容を誇っている。この塔は電波塔としてデザインされていない。あくまで普通のビルのようにデザインされている。ところが、50階に匹敵する272mの高さのうち、14階までは本当の事務室であるが、15〜26階はスーパーコンピューターなどの機械室、27階以上はアンテナ、ケーブル類の空洞なのだという。垂直線の集合、左右から7段上がりのシンメトリーで古典的なバランス感覚をもって聳えている。これが普通のオフィスビルであったら80年代のポストモダンのデザインと勘違いするかもしれない。ところがこの塔の上部には窓がない。中心にそれらしいシンメトリーの上昇型のデザインがされているが、窓ではない。夜には新宿の超高層が煌々と明かるい時に、この塔だけは真っ暗でその夜景の不気味さは特別である。つまり、この建物の上部2/3には人間の居場所がないのだ。
 かって、空に一番近いものは神だった。カテドラルの十字架だった。ドイツの森の中に十字架がそびえている風景は、十字架を超えるものは神を冒涜するといわんばかりだ。その下に森がうっそうとしげっている。風景の中で建築は樹木より低く抑えられているべき存在だった。東京でも60年代に目白の東京カテドラルが建ったときは、東京タワー以外は空にそびえるのは十字架だと思った。それが新宿に超高層が立ち始め、池袋に240mのサンシャインビルが建ち、東京にも超高層時代が訪れた。

 超高層は60階でも人間が活動する場としてつくられているが、Docomoタワーは機械が支配している。神の空の時代から、人間がそれを超え、いまや機械が支配する時代か。東京の空を支配し始めたものたちが、人の空間でないところが不気味である。オーソン・ウエールズの未来小説の一部を思い出して身震いする気持ちである。それが本当に自分たちの役に立っているものだろうか。それともそのような顔をしているが、こんな大きなものがいるのだろうかという素朴な疑問をとうに超えて、実はすでに人間の能力を超え、気持ちを制御しながら、機械が自分の世界を作り上げているのではないだろうか、という恐怖である。あるいは機械のような思考が人知れず、説明無しに人の世界を侵食しだしたという恐怖かもしれない。

 風景は人の知恵の集積だという。東京の風景も土地の所有形態や経済の歴史、人の欲望も含めて意志が作り上げたものだ。その長い蓄積の最終結果がどうも機械に支配される空となってしまうと考えるのは私だけだろうか。
「所論緒論」日刊建設工業新聞5
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