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09 風化させるな環境問題 |
アメリカのクリントン大統領が先月、CO2削減に関する京都大会の宣言採択を、開発途上国が行うまで延期すると発表した。その瞬間、最近のニュースで環境問題を聞くのは非常に少ないことに気づいた。もうすでに京都大会などは、過去のものになっているような雰囲気に愕然とした。
深刻な問題を記憶の外にほおりだしてしまう得意技は、日本人の特質なのかも知れないと思う。いつくるかわからない災害。毎年のように襲ってくる台風。突然起こる地震など、日本の風土がもつ天災は人知を越えるものがあり、このことは阪神大震災でもいやというほど身にしみたはずだ。その大震災もややもすれば忘れ去られようとしていることからみれば、環境問題のように一見抽象的に見える課題を忘れるのは簡単なことのようだ。日本の文化が紙と木でできているのは、資源の問題以外にこのような天災に何度となく痛められ、その都度立ち上がるのに好適な方法としてできたのではないかとも思えてくるほどだ。
環境問題は私たちの世代に与えられた最も重要な課題である。アメリカ文化に影響されて、力づくの機械仕掛けで快適性をかちとったバブル時代。この後遺症が現在、経済的に大きく立ちはだかっているが、これからの低空飛行時代にこそ、地道な環境に対応する考え方と技術を開発することができる絶好の機会ではないかとも思う。それが21世紀の次世代に対する私たちの義務であろう。
建築家の立場から環境と風景について考えてみる。最近、環境圧という考えが非常に気になりだしている。環境圧という考えは海岸の植生を考えてみるとわかりやすい。例えば海岸の植生についてみてみると、砂浜にはハマヒサカキやハイビャクシン、シャリンバイなどの小さな灌木から始まって、松が育ち始めるまでの数十メートルの範囲は、飛砂などによる環境圧が高いことがわかる。だんだん防砂林が効果を発揮すると、高い樹木も植わるようになり、里の風景が現れてくる。環境圧の小さな陸の内部では、自由な植生が楽しめるが、それでも土中の環境を反映して、高木にしてもその土地の高さの限界がある。海岸の砂浜から内陸への断面を考えてみると、放物線の環境圧曲線とでも呼ぶ曲線が存在し、植生はその土地の環境圧を超えることは難しいのだ。
建築もこの自然の環境圧を超えると、人工の力を誇示することになる。つまり、風土には潜在的に存在する環境圧曲線があって、これを力づくで破壊しようとする建築が現代建築でも目につくが、実際に見てみると寂しくなるほど環境から阻害してしまっている。むしろ環境圧とぎりぎりのバランスで成立しているように見える建築のほうが、全体の風景の中で美しいのだ。そしてこの環境圧は自然だけでなく、他の人工物や人々の視線、生活など同じ要因と考えてよさそうである。
環境を考えると云うことは、いろいろな要因とのバランスをとるということだ。人工と自然とが敵対していると考えると、環境を守る立場からは人が立ち入ることさえ拒まれる。白か黒かという選択である。貴重種の保存などのクリティカルな政策としては必要な場合もあるが、日常生活においてはバランスの考えの方が現実的である。CO2問題も同じように、日常生活における自然環境の破壊という場面では、人間側の主張をどう押さえ、どう折り合うかという、灰色の考え方のほうが力があると思われる。それぞれの場合の環境圧曲線を知った上で、それと折り合いを見つける技術が求められているのだ。 |
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「所論緒論」日刊建設工業新聞1 |
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