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16 吉武研究室での刺激的時間 |
イギリスの視察から帰国してこられた吉武先生が、明瞭でビンビン響く声で、小学校のスライドを映しながら、私たちに一言一句明晰な論理的な解説をしていただいたときのことが昨日のように思い出される。クラスターパターンの配置をした教室群が、林の中にレンガ壁を重層させて散在し、渡り廊下で繋がれている学校だった記憶している。私はそのとき、自分の育った学校とは全く異質な世界があることに目を開かれた思いがしたことが鮮明に思い出される。
東大の建築に進んだ2年後半から吉武研究室と接した時期は、私にとって最大の転機であり、非常に刺激に満ちた充実した時間であった。
2年後期の設計は、広部達也先生と横山正先生からプリミティブな要素による設計で有機的空間について教えられた。横山先生による外国雑誌の内容紹介とその博識ぶりは図抜けていた。本郷に来てからは、製図室にいることが楽しくてしようがなかった。若々しい鈴木成文先生の論理的思考、下山眞司先生の設計にかける情熱、松川淳子先生の辛らつな批評、曽田忠弘先生の兄貴分的な親切指導など、40歳そこそこの吉武先生を頂点として若々しい先生や大学院の先輩たちが常に議論をしかけ、その活気に満ちた研究室の雰囲気はゾクゾクするような凄さだった。
大学院には直島の小学校を院生で設計した石井和紘さんがいた。石井さんは信じられない見識家で、非常勤でこられたライトの三沢先生と丁々発止と建築論を展開され、われわれを圧倒した。空間関係論という論文を書き、大徳寺の空間を丹念に調べていたため、自分もいつの間にか京都の茶室を見て歩き、石井さんを真似て空間関係を論じ、卒業論文にしようと考えていた。大学ではいつも誰かと議論していたように思う。5月祭には空間体験と認識の手法について原空間として縦長の空間、低い空間、赤い空間、テープレコーダーから我々自身の熱い議論が流れている白い空間などを創った。また山の上会議所を自主コンペにし、都市工の丹下先生に勝手に審査をお願いしてご講評いただいた。丹下先生はガラスも視線を透過する壁と考えるべきこと、良い空間には縦横の比例があることなどを丁寧に教えてくれた。3年の冬には1年先輩の卒業設計を請け負って、後輩の近角君らと製図室に寝泊りし、2ヶ月くらい図面を描き続けた。自分たちは毎日毎日、信じられない成長をしていたと思う。
先生たちをさんづけで呼ぶことも自由な雰囲気を作っていたように思う。上下関係や年齢に関係なく、建築について創造的で対等な議論ができる土壌は、吉武先生の偏見のなさと自由に研究、議論をすべしという教えだったと今でも思う。
4年の夏以降は学生闘争で研究どころではなくなり、先生には大変なご苦労をおかけしたが、私はその中で弁証法を勉強し、サルトルを教科書にして卒業論文を「建築の弁証法的方法の問題」とした。このとき考えた個の尊重と個性のぶつかり合うところから新しいエネルギーが昇華する方法論はその後実践的に展開し、今では私の基本的な哲学と手法に成長した。まさにこの時期の一日一日がその後の自分の生き方を創っていたのであり、その後の設計活動において吉武研究室の教えがその基本にあったことを忘れたことはない。
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吉武先生をしのぶ文集原稿 |
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